1924年10月、伊予鉄道電気(後の伊予鉄道、以後伊予鉄と表記)野球部が高松市で高商クラブとの野球の試合を行なったが、0-6で敗れた。
この試合後、旅館で行われた対戦相手との夜の懇親会における宴会芸で、昼の敵を取るべく披露した演技が野球拳の始まりである。
当時伊予鉄野球部のマネージャーをしていた川柳作家の前田伍健(1889年 - 1960年)が、元禄花見踊りの曲をアレンジし即興で作詞・振付けをしたものであった。
なおこの時はじゃんけんではなく宴会芸由来であったことから狐拳であったと言われている(1947年の伊予鉄忘年会でじゃんけんに改められた)。
昼の負けはともかく夜の勝負に勝った一行は揚々とこの踊りを松山に持ち帰り、松山の料亭での「残念会」(あくまでも、野球の試合では負けていた)の場で披露した。
以後、宴会芸の定番となる。
また伊予鉄野球部が遠征する度に野球拳が披露されており、普及の一助となっている。
1954年には野球拳の歌がレコード化されブームとなった。
この時、他地区との間で本家争いが発生。
伊予鉄野球部が方々で披露したことが一因であったが、黎明期に松山の料亭で撮影された野球拳の写真が決め手となり、野球拳の詞は前田伍健の著作物として認知されることになった。
前田は自身を宗家とする家元制度を取り入れ、本家野球拳の普及発展に尽力した。
現在、和太鼓奏者の澤田剛年が四代目家元を務める。
その後、松山まつりでも取り入れられ、1970年から各団体の連が街を練り歩くようになった、松山市制百周年記念の1989年からはサンバ調の野球サンバも加わるようになった。
又、1968年の松山春まつりから松山城で本家野球拳全国大会が行われている。
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宗家 前田五健 先生
明治22年1月5日、高松市に生まれる。
本名 前田久太郎。
雅号 五剣 五健 伍健 欣瞳居 暁春居 三十尺坊。
旧制高松中学校卒業後、伊予鉄道電気(現在の伊予鉄道)に入社。
明治末期、東京の窪田而笑子門に学び、全国の各川柳雑誌の客員として活躍した。
愛媛県川柳文化連盟の初代会長。
画家である父 前田北水より南画を学び、各地展にて堂本印象、近藤浩一路、石泉、三友、翠鳳氏らの指導をうける。
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初代家元 富田狸通 先生
明治34年2月1日、愛媛県温泉郡川上村(現東温市)に生まれる。
本名 富田寿久。
大正13年明治大学政治学料卒業後、伊予鉄道電気株式会社(後の伊予鉄道株式会社)に入社。
大正15年松永鬼子坊氏につき句作に入る。
俳句会「いさには吟社」の結成するなど、独自の俳境を拓く。
狸の研究家でもあり、道後温泉前に趣味の店「狸のれん」の開店、趣味研究の狸に関し「たぬきざんまい」を発刊するなど、狸愛好家としても有名。
多種多芸で活動する傍ら、道後湯の町町会議員をつとめるなど道後振興にも尽力する。
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二代目家元 後藤二郎 先生
左が後藤二郎先生
(右は三代目家元
澤田藤静先生)
明治35年11月5日生まれ。
大正8年と9年には松商野球部のピッチャー、4番打者として全国大会に出場。
特に同9年には準決勝まで駒を進め、松商の第一期黄金期の担い手として活躍。
卒業後は社会人野球に進み、大阪の津田鋼材野球部での阪神実業団大会では4イニング投げて、連続12奪三振。
伊予鉄道野球部在籍中には試合に3本のホームランを打つ。
昭和20年ころまで現役、その後は伊予鉄、井関農機などの監督を務めた。
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三代目家元 澤田藤静 先生
わずか12歳で数々の歌謡コンクールを制覇。
歌手活動ののち、昭和45年(第一回目の松山まつり)に野球拳の歌手として抜擢。
平成元年三代目家元となる。
昭和51年キングレコード、昭和54年ビクターレコードよりレコーディング。
現在も活動中。
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愛媛県松山市に生まれる。
16歳より本家 野球拳に和太鼓として参加。
松山まつり 野球拳おどりの作曲編曲を手がける。
2002年四代目家元となる。
・太鼓士
(和太鼓 雷人)。
・和太鼓 澤田道場
(iyoカルチャースタジオ) 主宰。
・松山春まつり野球拳全国大会実行委員会 会長。
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一般社団法人iyoまつり協会(iyo matsuri museam)代表理事
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えひめ次世代エネルギーパーク(iyo matsuri museum)代表者
野球拳の普及に努めて、後生に素晴らしい野球拳を伝える為に、全国的に正統野球拳のイメージ作りにも力を注いでいる。